一橋大学の文献案内「社会科学の基礎を学ぶための50冊」の「2 社会科学入門」から、前編として9冊。社会をどう捉えるかという方法そのものを扱う本と、自由・市場・民主主義といった基本概念を問い直す本が並ぶ。
出典:https://www.soc.hit-u.ac.jp/~takujit/book_list.html
本書を手にしたまじめな君は、何の疑問も持たず、大学では勉強するもんだと張り切ってるんじゃないか?だとしたら、それは問題だ。では、その問題って何だ?いま学生に必要なのは「学ぶこと」が、世の中(とくに会社という「世間」)でどんな意義があるかを考えることなのだ!フツーの学生のための、まったく新しい『学問のすゝめ』の登場。
電子顕微鏡を通して肉眼では見えない世界を見るように、社会科学では、概念という装置をつかって現象の奥にある本質を見きわめようとする。自前の概念装置をいかにして作るか。それを身につけることで何が見えてくるか。古典を読むことと社会科学を学ぶこととを重ね合わせて、本はどう読むべきかの実習を読者とともに試みる実践的読書論。
自然現象とちがい、生きた人間の日々の営みを対象とする社会科学において、科学的認識は果して成り立つものだろうか。もし成り立つとすれば、どのような意味においてか。この問題に正面から取り組んだ典型的な事例としてマルクスとヴェーバーを取りあげ、両者の方法の比較検討の上に立って社会科学の今後の方向を問う。
社会科学が成り立ちうるのは、人間類型を前提にしてのことである。本書は、デフォウにおいてイギリスの合理的経済人の原型を、マルクスにおいて疎外された階級的諸個人を、ヴェーバーにおいてプロテスタンティズムのエートスを、その時代の典型として探り出すことにより、社会科学における人間の今日的問題に新たな光をあてる。
第一次大戦後の混迷のドイツ.青年たちは事実のかわりに世界観を,認識のかわりに体験を,教師のかわりに指導者を欲した.学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で,ウェーバーはこうした風潮を鍛えらるべき弱さだと批判し,「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」と彼らを叱咤する.それは聴衆に「脅かすような」印象を与えたという
ジョン・スチュアート・ミルという存在を一言で表すのは難しい。多産のジャーナリスト、才気あふれる論理学者、哲学者、自由主義的な下院議員、最初の夫人参政権論者……「ヴィクトリア時代の火つけ役」とも呼ばれるミルは、父ジェームズの功利主義者のチャンピオンとしての志を継ぐべく父による英才教育を受ける。三歳にしてギリシャ語である。それゆえに生じた青年期の精神の危機、そして長年にわたる交際の末に得た理想の伴侶ハリエット。
ベンサム、リカード等と付き合い、同時代の社会思想のみならず、明治以来の日本にも大きな影響を与えた思想家による自伝の古典。
「ゆたかな社会」のダイナミズムと魅力の根拠とは何か。同時に、この社会の現在ある形が生み出す、環境と資源の限界、「世界の半分」の貧困といった課題をどう克服するか。現代社会の「光」と「闇」を、一貫した理論の展開で把握しながら、情報と消費の概念の透徹を通して、“自由な社会”の可能性を開く。社会学最新の基本書。
一七七六年、アダム・スミスは『国富論』を著し、「見えざる手」による市場社会の成立を理論化した。歴史学派・社会主義者はこの自由主義に異議を申し立てたが、経済学の科学化は「パレート最適」を生み、自由主義経済理論は完成したかにみえた。しかし大戦と恐慌は各国産業を弱体化し、自由放任を補完する形での政府介入を説くケインズ理論が世界を席捲するものの、その反動が七〇年代現れる。「自由」への対応を通して経済思想史を展望。
カナダの政治学者が、自由民主主義を「自由(=市場社会)」と「民主主義」というもともと別々の系譜が結びついたものとして捉え直し、その歴史をたどる。保護のための民主主義、人間の発展のための民主主義、選挙を市場になぞらえる均衡モデル、そして参加民主主義という四つのモデルを順に検討し、市場社会と結びついた自由民主主義がこの先も存続しうるのかを問う。書名の問いは1970年代のものだが、いま読むと問いの立て方そのものが古びていないことに気づく。